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炎天下の〈田の草とり〉をなくした
除草剤PCPの光と影


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 この季節になると、つらかった大平洋戦争直後の〈田の草取り〉を思い出す。今でこそ、除草は軽作業に変わったが、当時は10アール当たり50時間を超す炎天下の重労働であった。すべてが除草剤のおかげである。  
 
 我が国の除草剤の歴史は昭和23年(1948年)、米国から導入された2・4‐Dにはじまる。日本中の農家がこの薬剤の効果に目をみはったものだが、残念ながらノビエにだけは効果がなかった。 田の草取りはこの時点で、なお欠かせない作業であった。  
 
 〈田の草とりのいらない除草剤がほしい〉この農家の要望に応え、最初に世に出た除草剤がPCP(ペンタクロロフェノール)である。みつけたのは山梨県農業試験場由井重文(ゆいしげふみ)技師らである。  
 
 由井らのPCP研究は、ひょんなことからはじまった。当時、山梨県の農家は風土病、日本住吸血虫症(にほんじゅうきゅうけつちゅうしょう)に悩まされていた。 この病気の病原体住吸血虫は湿地などに生息し、灌漑水とともに田に入り、人体に侵入する。最後は肝臓などの器官を侵し、死に至る怖い病気だが、PCPはこの原虫の中間宿主宮入貝(みやいりかい)の駆除に卓功があった。  
 
 由井らはこの薬の水稲への薬害調査を受けもったのだが、はからずもこれが除草効果発見の糸口になった。PCPをまいた田ではウキクサが枯れる。ノビエなど1年生雑草の発生も抑えられる。 昭和29年(1954)、彼らはさっそくこの観察結果を公表した。  
 
 おりしも2・4‐Dに刺激され、研究者たちが除草剤研究に興味をもちはじめた時期であった。由井らの発見はたちまち注目を集め、ここからは農林省や大学を中核に、他府県も巻き込む全国的な研究に発展していった。  
 
 PCPは2・4‐Dと異なり、非選択・接触型除草剤で、すでに生長の進んだ稲には影響しないが、発芽直後の雑草はすべて枯らす。この特性を活かし、田植え直後の土壌表層にPCPを吸着させ、発芽してくる雑草を枯らす土壌処理技術が考案されていった。  
 
 1959年(昭和34年)、PCPは普及に移された。最初は水溶剤だったが、やがて土壌処理に適する粒剤が開発される。我が国の稲作史上、手取り除草・除草機なしに除草が可能になったのは、このときからだろう。 当然、農家に歓迎され、60年代最盛期には混合剤も含め、全国で188万ヘクタール、全水田の60%で利用されるほど広く普及した。  
 
 だがそのPCPの隆盛も、昭和37年(1962)以降、かげりがみえはじめる。この年の集中豪雨で散布直後の薬剤が有明海や琵琶湖に流入、魚介類に深刻な被害を与えたからである。大雨の際、土ごと薬が流出することまで想定しなかった研究者たちのミスといわれても仕方がないだろう。 以後、使用は規制され、やがて低毒性除草剤に席を譲るようになった。  
 
 昭和50年代後半(1980年代)になると、すでに使われなくなったPCPにさらに追い討ちがかかる。土壌中に残存するPCPに、環境汚染の元凶ダイオキシンが含まれていることが判明したからである。 正直、そこまで研究者も予測できなかったのだが、弁解にはならないだろう。  
 
 今ではすっかり裏目のPCPだが、炎天下の草とりをなくそうと努力した研究者たちの誠意だけは、明記しておきたい。ちなみにこの教訓を活かし、最近の除草剤はより安全なものに変っている。 由井は農業試験場長を最後に退職、昭和62年(1987)、68歳で亡くなった。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(60) 炎天下の草取りを不要に、全国を席巻したPCPの光と影 『農業共済新聞』2004年7月2週号(2004).より転載  (西尾 敏彦)


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