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わが国ブドウ育種の大恩人、
川上善兵衛(かわかみぜんべえ)の信念


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 今年も新酒ワインが出回る季節になった。わが国に欧米から近代醸造技術が伝えられたのは明治になってからのことである。明治7年(1874)に山梨県の甲府にできた民営醸造場が、 わが国初のワイナリーといわれる。  
 
 ワイナリーのその後の歩みはしかし、必ずしも順調ではなかった。日本人は生食の方を好むということもあるが、ワイン用の適品種がなかったことも原因している。当時のブドウは、甘味などを加えた「甘味ブドウ酒」の原料にはなっても、 本来のワイン用としてはほど遠い存在であった。
 
 国産ブドウの品質をあげ、ワインを今日の水準にまで引き上げた最大の功績者は、なんといっても川上善兵衛(かわかみぜんべえ)だろう。川上は現在の新潟県上越市の生まれ。 代々大地主の家柄だったが、〈貧しい農村に換金作物を〉と、ワインづくりに生涯を捧げた。明治24年(1891)には、先祖伝来の田地を売り払って裏山21ヘクタールを購入、海外から取り寄せた500余品種を植えつけている。 今日の「岩の原葡萄園」は、ここからはじまった。  
 
 川上は3年後、最初にみのったブドウでワインを醸造するが、酸っぱくて飲めなかった。石蔵を建設、雪を利用した低温発酵の技術を工夫していったが、原料ブドウの品質の悪さだけはいかんともしがたい。 品質向上のため、彼自身が品種改良を思い立ったのは大正11年(1922)、54歳のときであった。  
 
 ここで、ブドウの品種に触れておこう。ブドウの品種には、ヨーロッパ種とアメリカ種の2群がある。前者は品質がよく、ワイン向きだが、雨の多いわが国では栽培がむずかしい。後者は栽培が容易で生食に向くが、 醸造用としては品質に難があった。そこで彼は両者を交配して、日本独自の醸造用品種をつくろうと考えたのである。ちょうどメンデル遺伝法則が伝えられ、品種改良が脚光を浴びた時期であった。  
 
 品種改良には根気と観察力が欠かせない。人工交配をくり返し、できた種子を集め、翌年から選抜をつづけていく。亡くなるまでの20余年間に、川上は1万株以上の交配を行い、22品種を世に送り出した。 代表は「マスカット・ベリーA」。紫黒色の果粒をもつ赤ワイン用中生種で、当時としては大粒・大房、昭和2年(1927)に育成された。生食用にも適し、最盛期約3700ヘクタールが栽培されている。  
 
 平成13年(2001)現在、ブドウの品種別面積は1位が「巨峰」。以下、「デラウエア」「ピオーネ」「キャンベルアーリー」とつづき、「マスカットベリーA」は1210ヘクタールで5位にランクされる。 上位品種中、「キャンベルアーリー」は川上がアメリカから導入した品種で、「巨峰」「ピオーネ」はこの品種の血を引く。このところ、世界でも最高級の品質を誇るわが国ブドウ品種の(いしずえ)は、 まちがいなく川上によって築き上げられたといってよいだろう。  
 
 10月下旬、今ではサントリー傘下にある岩の原葡萄園を訪ねてみた。園内の見晴台に立つと、遠く直江津の海がみえる。かつてはそこまで川上家の田地づたいに行けたとか。岩の原はそれほどブドウ栽培の好適地とは思えない。 にもかかわらず川上は私財をなげうち、この地にブドウ園を定着させ、公的研究機関をしのぐ育種事業をなし遂げている。一念、岩をも貫くとは、このことだろう。昭和19年(1944)、信念の人川上善兵衛は76年の生涯を閉じた。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(64) ブドウ22品種を作出、育種の恩人・川上善兵衛 『農業共済新聞』2004年11月2週号(2004).より転載  (西尾 敏彦)


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