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農民の熱気(ねつけ)に燃えた技術革新、
水稲室内育苗の誕生
〜飯山在職の20年を注ぐ〜


松田順次と早植研究会の人々



 「松田先生は座敷の長火鉢の上に行灯(あんどん)のような箱をのせ、中で苗を育てていました。焦がすんじゃないかと心配したもんです」 −松田順次技師の仕事ぶりをよく知る小川久夫さんたちはこう語った。2月中旬、深雪の飯山を訪ねた時のことである。

 今では日本中の農家が実行している水稲室内育苗は、長野県農試飯山試験地の松田技師によって昭和32年に開発された。当時の松田の住居は庁舎と棟つづきで、 座敷もまた彼の実験室であった。戦後の我が国農業を一変させた世紀の技術革新も、こうしたささやかな実験から始動していったのである。

 飯山は雪が深い。4月いっぱい田畑を覆う。早植が増収に結びつくことはわかっていても、雪解けを待っていたのでは田植が6月になってしまう。 雪の中でもできる苗作りは、当時の積雪地農家の最大の願望であった。

 昭和27年、勉強熱心な農家が集まって奥信濃早植研究会が発足する。

 はじめは堆肥熱利用の温床苗代などで、どうしたらよい苗ができるか、より多収が得られるかと、みんなで真剣に論じ合っていたという。
絵:後藤泱子
旧飯山試験地とあんどん育苗(右上)
現在は飯山農協育苗センター。バス停の名前だけに当時を留める


 この仲間が頼りにしたのが、試験地の松田先生だった。松田は研究者仲間のつき合いはあまりよくなかったようだが、農家との親交には厚く、 いつも農家の間を飛び回っていた。当然、飯山在職の20年余をすべて苗作り研究に注ぎ込む結果になった。

 さまざまな試行錯誤の後、最後に彼がたどり着いたのが、稚蚕飼育をヒントにした室内育苗法であった。

 蚕業講習所の卒業生で養蚕研究の経験をもつ彼のアイデアが、育苗研究に突破口を切り拓くことになったのだろう。

 室内育苗はしかし、従来の成苗移植の定説から大きくはみ出す異端の技術であった。密播のため、どうしても稚苗しか育てられない。当然、 研究者仲間から強い反撥があったが、彼には自信があった。

 稚苗でも早植によって増収することをすでに実証していたからである。昭和30年からは飯山市農林課の協力も得て、ガラス室で苗を作り、 早植研究会の会員に配布し試験をしていた。その結果は「松田先生のおかげで、米が1石(150キロ)も余分にとれるようになった」と今も語り継がれている。

 昭和39年、松田は退職、多くの人に惜しまれながら飯山を去った。早植研究会はその後も活動をつづけ、今では松田会と改称されている。

 松田を慕う会員の想いがますます強くなってきたからである。その松田も昨年8月、87才でついに帰らぬ人となった。

 「松田先生のこととなると熱気(ねつけ)が上がる人が、今も20人や30人はすぐ集まります」と、県農試の方が方言まじりで教えてくれた。 やがて田植機の時代につながった歴史的な技術革新を松田とともに成し遂げた彼らの熱気、いつまでも消えることがないだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 平成7年3月1日より転載


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