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鍛冶屋さんと農家がつくった「土を耕す機械」
西崎浩・藤井康弘らの耕うん機発明
〜昭和7年には実用機第1号〜


西崎浩・藤井康弘ら



 大正10年、1人の外国人貿易商がスイス製の耕うん機をもって日本各地を回った。元イタリア領事のファーブルランドで、耕うん機はシマーといった。

 第1次大戦後の機械工業の興隆期で、ぼつぼつ機械が農村にも入りはじめた頃である。実演会はどこも盛況で、農家や鍛冶屋さんの関心を集めたという。

 だが、かんじんなシマーの売れゆきはあまりよくなかった。機体が大きすぎて扱いにくかったこともあるが、2000円という価格に当時の農家は手が出なかったのだろう。

 なにしろ日当が80銭の時代である。

 ファーブルランドには予想外だったが、この実演会が我が国農業の機械化を大きく前進させる。会の1つが催された岡山県児島湾干拓地の村々(現岡山市)で、 国産耕うん機が誕生するきっかけになったからである。

 この地方では、稲の収穫と麦播・いぐさの植付けが重なる。しかも重粘土である。

 「土を耕(たがや)す機械」が待望されていた。

 一方で、用水が不足がちなため早くから揚水用発動機が利用され、機械なれした農家と腕のよい鉄工所の協力体制がすでに整っていた。

 シマーをみて発奮した人々の中から、まず西崎浩が最初の国産耕うん機を作った。大正15年のことである。
絵:後藤泱子
昭和7年、藤井康弘がつくった耕うん機(2.5馬力)

 耕うん機といっても発動機は別だ。揚水用の手持ち発動機を取付ければ安くなる。

 「小作農家でも手が出る」機械というのが西崎の発想で、価格は180円であった。もっとも、180円が安いとみるのは早計に過ぎる。畑地はともかく重粘水田では故障が続発し、 耕うん機ではなくコワレ機だと冷やかされたそうである。

 コワレ機はしかし、つぎの発明を呼んだ。西崎の機械を修理した鉄工所から、新しい耕うん機を発明する人々が生まれたからである。

 板野初五郎・藤井康弘などの人々で、お互いが競い協力しあって新しい発明に挑んだ。

 「廃車になった自動車のエンジンを利用したものや、何かの機械のこわれた部品を組み立てたものや、苦労のあとがまざまざと読み取れる機械を見て、 わたしはその着想の奇抜さに驚いた。しかし最も驚いたのは、耕うん機の研究に熱中している人が意外に多かったことである。」藤井は発明仲間のことをこう回想する。

 その藤井が昭和7年に完成した2馬力半の耕うん機が実用機としては国産第1号機であったといわれる。

 昭和13年には全国に22の耕うん機製造所があったが、うち17が岡山県にあったという。より完全で安い機械をと発明に励んだ鉄工所の人々。 未完成の機械でもあえて購入し、さらなる改良に向けての助言と支援を惜しまなかった農家の人々。

 海の彼方から来た1台のシマーの響きは、こうした人々の輪を呼び起こし、児島湾の固い土はもちろん、全国の農地を耕(たがや)す耕うん機・トラクターの響きへと拡がっていったのである。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 平成7年2月1日より転載


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