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誕生100年を迎えたジャガイモ
「男爵」とその育成者たち


イラスト

【絵:後藤 泱子】

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 もう残り少なくなったが、今年、平成20年(2008)は「男爵(だんしゃく)」いも誕生100周年に当たる。

 ジャガイモ「男爵」は明治41年(1908)、川田龍吉(かわだりゅうきち)男爵が七重村(現在の北海道七飯町)の彼の農場にイギリスから取り寄せた種いもが元祖といわれる。 川田は土佐出身、父の死後男爵を継承する。若いときイギリスに留学、造船工学を学び、帰国後、三菱商会に入社、明治39年(1906)に函館船渠(ドック)社長に就任した。

 無類の園芸マニアだった彼は、函館に移ると近くの七重村に農地10ヘクタールを購入、海外から取り寄せたさまざまな果樹・野菜・花を試作した。のちに「男爵」と名づけられた種イモも、そのとき購入したジャガイモ11品種のなかに含まれていたらしい。

 川田はしかし、ジャガイモの品種にはとんと関心がなかったようだ。のちにこのイモが有名になり、出自が問われるが、彼はまったく記憶していなかった。このイモがアメリカの品種「アイリッシュ・コブラー」と判明したのは、 昭和になってからである。ちなみにコブラーとは「靴直し」のこと。靴直し屋さんが日本に渡って、男爵に栄進したわけだ。

 今ではジャガイモの代名詞にもなる「男爵」だが、その並はずれた特性を最初に見抜いたのは、ほかならぬこの農場に働く人たちだった。農場で働いていた農家の主婦成田キンが管理人の安田久蔵から「これはいいイモだから」と分けてもらったのが、 普及のはじまりという。彼女の夫成田仁太郎、息子の惣次郎らの手によって、イモは近郷に広まっていった。「男爵」と命名されたのは、このときである。きっかけをつくったのは川田だが、 品種を世に送り出した功績は、現場でこのイモの特性を見出した彼らに帰するべきだろう。

 とはいえ、「男爵」が全国ブランドになったのは昭和になってからである。昭和3年(1928)には、たび重なる凶作に威力を発揮したことから道の優良品種に認定されるが、このころから本州にも急速に広まっていった。 目が深く、疫病には弱いが、極早生・多収で広域適応性に富み、なによりそれまでの在来種に比べて格段と美味なことが歓迎されたのだろう。昭和29年(1954)の記録では、全都道府県の奨励品種に採用され、 栽培面積9万5000ヘクタールに達したという。

 昭和26年(1951)、川田龍吉はその95年の生涯を閉じた。彼の長寿がのり移ったのだろうか。平成12年(2000)現在のわが国ジャガイモ栽培面積は春秋植えを合わせて9万4600ヘクタール。その32%、 3万ヘクタールを「男爵」が占める。2位「コナフブキ」が1万4200ヘクタールだから、今もダントツの人気である。

 10月の末に、「男爵」ゆかりの地を訪ねてみた。七飯町の国道脇には「男爵薯発祥の地」記念碑が建つ。「男爵」はこの辺りの土に植えつけられたのだろう。川田が晩年を過ごした北斗市当別の農場跡には、 男爵資料館が建ち、ここで活躍した洋式農具やトラクターが展示されていた。「男爵」はこれからも日本中の食卓をにぎわすことだろう。

新・日本の農を拓いた先人たち(12)多収で広域適応性に富む、誕生100年迎えたジャガイモ「男爵」とその育成者たち 『農業共済新聞』2008年12月2週号(2005)より転載  (西尾 敏彦)


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