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「現場百遍」から生まれた品種

〜 香村敏郎が育成した水稲「日本晴」 〜


イラスト

澄みわたった秋空に「日本晴」の穂波が揺れる
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 今年の秋も終わりに近いが、澄みわたった秋空に穂波の揺れる稲田は、なぜか懐かしさを覚えさせる。そんな風景の連想から、水稲品種「日本晴」について語ってみたい。

 今でこそ「コシヒカリ」に席を譲ったが、一昔前の我が国水田は、日本晴で埋め尽くされていた。昭和45〜53年の9年間は全国作付けの1位を誇り、 51年には最高36万ヘクタールにまで達している。良質多収でどこでも作りやすいため広域適応性品種といわれ、福島から宮崎までの31都府県で栽培されていた。

 日本晴は昭和38年に、当時安城市にあった愛知県農業総合試験場で香村敏郎(こうむら としろう)らによって育成された。交配が32年だから、わずか6年で育成されたことになる。 大変順調に育成されたかに思えるが、実は<薄氷を踏む思い>の育種だったと、香村は述懐している。

 昭和30年代といえば、「保温折衷苗代(ほおんせっちゅうなわしろ)」の普及で早植化が進み、晩生から早・中生種へ、品種が激変した時代である。 戦前から幾多の名品種を育成してきた愛知農試としては、この流れに乗り遅れるわけにはいかなかった。急遽(きゅうきょ)、早・中生品種の育成に取りかかったのだが、 香村らはそこで2つの常識破りを試みている。

 一つは「世代促進育種法」の採用である。普通、品種改良には十数年を要する。だが、保温と日長処理を組み合わせることによって、初期世代を1年間に3世代経過させることができた。 現在では育種の常識になっている世代促進法だが、当時はまだ本格的に育種に応用した例はなかった。彼らはあえてそれに初挑戦したのである。

 今では想像もつかないが、当時は試験場にも育種用温室はなかった。彼らの熱意で温室はできたが、できたからといって、稲がそう簡単に育つものではない。 管理がうまくいかず、低温や日照不足で採種がまともにできないこともあった。不稔が多く、一時廃棄しかけた系統から、日本晴は生まれたのだという。 彼らの執念がこの大品種を探り当て、我が国初の世代促進育種を成功に導いたのだろう。

 日本晴の育成には、もう一つの常識破りがあった。日本晴の両親は「ヤマビコ」「幸風」であるといわれる。だが正確には<後に両品種になった未固定系統>という方が正しい。 前者は奨励品種試験に供試中の系統だったし、後者はまだ雑種4代の系統に過ぎなかった。出穂時の姿がすばらしいため、抜き穂して交配に供したのだそうである。 香村自身<思いつき>の育種といっているが、こうした親選びが後代系統の変異の巾(はば)を広げ、優良形質の選抜に役だったのだろう。

 「育種家は先輩の背中をみて育つ」と香村はいう。彼が先輩から学んだのは、暇さえあればつねに育種圃場に足を運ぶ「現場百遍」の姿勢だった。 現場通いで培われた自信が、この不世出の品種を創り出す力になったのに違いない。平成10年現在、日本晴はなお全国で3.4万ヘクタール。 香村は県を退職したが、今も現場に通い育種に情熱を傾けている。
「農業共済新聞」 1999/11/10より転載  (西尾 敏彦)


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