ホーム読み物コーナー > 日本の「農」を拓いた先人たち > 世界を驚かせた〈手術ぬき〉人工妊娠牛の誕生

世界を驚かせた〈手術ぬき〉人工妊娠牛の誕生


〜牛の開腹手術なしで受精卵移植に成功〜



 昭和35年の米国ワシントン州立大学のこと。来る日も来る日も牛の肛門に手を突っ込み、調査に熱中する日本人留学生がいた。農林省畜産試験場の杉江佶(ただし)である。

 直腸ごしに卵巣をさぐり、発情周期や妊娠による変化を指で覚える。これを粘土で再現し、経時変化を追う。後に世界をあっといわせた、 彼の非手術人工妊娠(受精卵移植)の研究は、この経験からスタートした。

 普通、1頭の雌牛の卵巣には5〜6万の卵が貯えられている。ところが実際に雌牛が一生に生むことができる子牛の数は15頭程度。そこで考えられたのが人工妊娠である。 優良な母牛の卵を生体から多数採集し、複数の借り腹牛の子宮に植えつけてやる。1頭の母牛から多数の優良子牛を生産できる妙案だった。

 杉江が人工妊娠の研究に着手した当時、外国では多くの研究が先行していた。いずれも開腹手術によるものである。帰国後の杉江は、これを開腹せずにやってのけようと決意した。 「日本では農家の庭先に行って、開腹して移植したり、採卵したりすると、とても農家がついてこない」と考えたからである。

 雌牛に性ホルモンを投与すると、1回に10〜15個の卵が排卵される。人工授精の後、子宮を洗浄して受精卵を回収する。これを予め性周期を揃えておいた別の牛の子宮に、 手術なしで植えつけてやる。いかにも日本人的な、手先の器用さを活かす技術だが、米国で牛のお腹を熟知したことが役に立った。

世界初の人工妊娠は、生みの親牛も子牛もホルスタインだった  絵:後藤泱子  もっとも最初は失敗の連続だったという。いつ、どこを洗浄すればよいかを知るのに1年半を要した。試行錯誤の末、加圧した液を子宮上部まで送り、 その潅流液を全部回収できる採卵器を工夫して、やっと採卵が可能になった。3〜4年後のことである。

 採取した受精卵の移植にも特殊な移植器を工夫した。長い注射針を膣壁から子宮に貫入する方法である。もっとも現在はさらに改良され、この方法は使われていない。

 昭和39年の8月6日、当時千葉市にあった畜産試験場で、手術ぬき人工妊娠による世界初の子牛が誕生した。外見は何の変哲もないホルスタイン子牛だが、 世界の関心を集めるには十分だった。以後、人工妊娠は手術ぬきが主流になり、各国がその技術開発を競う時代がやってきたからである。 杉江を中心にした研究グループの快挙である。

 昭和54年、杉江は凍結受精卵の移植にも成功した。60年には畜産試験場で、彼の後継者たちの手になる牛の試験管ベビーが誕生した。杉江らの努力によって、 我が国の人工妊娠技術は世界のトップレベルにある。57年からは実用化のための技術者養成事業も進められている。

 平成6年現在、人工妊娠で出産した全国の子牛累計は5万7千頭に及ぶ。国際化時代の畜産を支える革新技術として、さらに一層の進歩を期待したい。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年4月2日 より転載


目次   前へ   次へ

関連リンク : 農業技術発達史へ