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田植機誕生の前夜
独創の芽を育てた農民発明家たち
〜自らの体験と私財で発明〜



 日本の田の98パーセントは今、田植機で植えられている。でも20年ほど前までの田植は、泥田に腰をかがめ苗を1株ずつ植えていく、なんとも過酷な労働であった。

 田植機はメーカーや試験場が発明したものと思っている人が多い。実は最初この難題に挑んだのは、他ならぬ農家など個人発明家であった。自ら体験し、 目の当りにした田植のつらさが彼らを発明に駆り立てたのだろう。もちろん、私財を投じてである。

 「いつの間にか貯えも次第に減っていき、子供たちの着物さえ十分に間に合わすことができなくなった」と述懐した人もいた。

 田植機の特許第1号は明治31年に宮崎県北郷村の農家・河野平五郎が得ている。河野は西南戦争で薩軍に参加した経歴をもつ。ちょうど動力精米機や茶揉み機ができた時代で、 世間に発明の気運がみなぎっていたのだろう。絵で見ると人力牽引式四条植、一見、荷車のようだが、歯車によって植付爪が作動する今見てもスマートな作品だった。

明治31年、河野平五郎が考えた「田植機械」  絵:後藤泱子  以来、昭和30年までに192件の特許・実用新案が公告されているが、その多くが農民発明家の出願である。簡単な植え具から、からくり人形のように複雑なもの。 持ち運び型、車輪式、ケーブルを張ってソリで移動するもの。人力式、畜力式、自走式。苗代から苗取りしてきた苗を手の操作をまねて植え付ける方式が主だが、 今の田植機につながる土付苗方式もあった。

 土付苗田植機といえば、その1号機は大正12年に岡山市の渡辺辨三が発明した。机の脚に車をつけたような機械で、苗代から土ごと切り取った帯状の苗を台に載せ、 1株分ずつブロックに切って落下させる方式だった。

 ところでこの時代、国公立機関の田植機研究は少ない。当時、国や県の研究者の多くは田植の機械化には消極的で、直播こそが省力の近道と考えていたからである。 なにしろ苗半作といって、苗代の健苗づくりが稲作の基本と考えられていた時代である。苗代を前提に、田植の機械化ができるなどとは残念ながら考えていなかったのだ。

 昭和30年代になって国も重い腰を上げる。この頃イタリア・中国で田植機が実用化されたというニュースが伝わり、農機産業も関心を持ちはじめたからである。 36年からは農林省の研究会も開催され、官民挙げての研究が推進された。40年になるとまず根洗苗田植機が、つづいて土付稚苗田植機が市販された。 ここからは驚異的な進歩を遂げ今日に至る。先人たちのアイデアに科学技術の進歩が補強され、はじめて可能となったのだろう。

 昭和農業の最大の技術革新といわれる田植機の発明はまた、世界に誇る独創技術でもあった。その独創に、明治以来の農民発明家の知恵が深く関わっている。 このことを大いに誇りとし、その志を受け継いでいきたいものだ。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1994年6月1日より転載


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