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「いもち病発生予察」育ての親

〜顕微鏡で胞子数を調査〜


顕微鏡の虫だった栗林数衛



 昭和7年は北日本を中心に、イネに「いもち病」が多発した年だった。この年の秋、試験田に足を踏み入れた長野県農業試験場の栗林数衛(かずえ)技師は奇妙なことに気がついた。 稲の葉が揺れるたびに「淡い白煙状のもの」が舞い上がるのである。

 <いもち病の分生胞子が飛散しているのでは>そう考えた彼は、早速、胞子の採集法の工夫に取りかかった。胞子の飛散状況から「いもち病の発生を天気予報のように予知し、 農家に知らせることができたら、防除もいっそう徹底するだろう」と考えたからである。

 まず顕微鏡用のスライドグラスにグリセリンゼリーを塗布する。これを野外に置き、空気中に浮遊している胞子を付着させ、顕微鏡下で観察する。 スライド上のカバーグラス18ミリ四方に含まれる胞子数を数える。この数の多少で、病菌の活動状況を推察しようというのである。

 昭和8年から栗林は、いろいろな環境下での胞子の飛散状況を調査した。彼とともに、この根気のいる調査を成し遂げた市川久雄技師の回想によると、 「毎日検鏡の連続で、新品のツアイス顕微鏡の粗動微動適正装置のネジ山が摩耗し使用不能となった」とか。気象状況や昼夜の別で胞子の飛散がどう変化するかを知るため、 3年間に32昼夜も徹夜観察をしたともいう。県内各地の調査はもちろん、飛散胞子の高さ別分布、稲作期間外の飛散状況まで、綿密な調査が試みられている。

連日の検鏡で、顕微鏡の微動装置が磨耗してしまったとか  絵:後藤泱子  こうした苦労が実り、予測法が完成したのは昭和16年の春だった。試験田の畦畔に被害ワラを堆積し、近くに胞子採集台を設けスライドを置く。 毎朝7時にスライドを交換、一昼夜分の胞子数を数える。この観測結果にイネの生育・気象状況などを勘案して、穂いもちの発生を予測するのである。

 実はこの年に、農林省は我が国初の「病害虫発生予察及び早期発見に関する事業」を発足させている。そのきっかけになったのが栗林らの研究だった。 いもち病の予察には栗林らの方法がそっくり取り入れられている。新事業をスタートさせようとする農林省の要望に応え、昼夜兼行で取りまとめたものである。

 昭和29年12月、栗林は57才の若さで亡くなった。農試の病理部長として活躍が期待された折りも折りの、惜しみて余りある急逝だった。 栗林は研究も熱心だったが、無類の酒・タバコ好きでもあったようだ。霊前には彼が愛用したルーペと、清酒一瓶・タバコ一箱が供えられていたという。

 いもち病の発生予察技術は彼の死後さらに急速な進歩を遂げ、被害回避に大きく貢献している。最近ではコンピュータを駆使して、発生に関与する多数要因の解析を行ない、 高精度の予察ができるようになった。だがこうした技術開発の発端が栗林らの労苦にあったことを、忘れないようにしたいものである。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年9月10日 より転載


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