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日米技術者の交流から生まれた「愛知用水」
丘から丘へ35年間通水


〜愛知用水の巨大サイホン〜



 昨年の11月13日から2週間、愛知用水の「大高サイホン」が公開された。同用水は現在複線化工事に入っている。大高サイホンも複線化され、 既設サイホンの補修が行われた。今回の公開はその工事の断水期間を利用し、実現したものである。

 サイホンといっても、理科の実験に出てくるサイホンとは大違い。大高の場合は内径3メートル・延長548メートル。丘から丘へ、 平地部ではJR東海道線・新幹線・国道・溜池などの下を潜る大サイホンである。

 35年間、通水しつづけたサイホンの内部など滅多にみられない。この機会にみておこうと、全国から700人が駆けつけた。その彼らが舌を巻いたのは、 サイホンの内壁にほとんど老化がなく、漏水も少なかったことだ。当時の技術の確かさを示すものだろう。

愛知用水の水源・牧尾ダム木曽御嶽山の山ろくにある  絵:後藤泱子  大高サイホンを含む愛知用水は昭和32年に着工、36年に完成した。水源は木曽川水系の牧尾ダム。ここで貯えた水を中流の岐阜県八百津町の兼山取水口で受け入れる。 幹線水路は知多半島先端まで112キロ。その四割はトンネル・サイホン・暗渠で結ぶ。途中には愛知池など5ヶ所の調整池も造成される。 幹線水路からはさらに、1000キロに及ぶ支線水路が延びる。敗戦後日も浅い我が国が国運を賭けて取り組んだ大工事で、わずか5年間で完成した。 アメリカから最新技術のテコ入れがあったからである。

 愛知用水は建設費の一部を「世界銀行」の借款に依っている。その条件として、海外からの技術援助受け入れが義務づけられた。今では考えられないことだが、 当時の我が国の技術力はあまり評価されなかったらしい。

 もちろん技術援助を受けることには抵抗もあった。だがこれだけの大工事を短期間にやってのけるとなると、経験がものをいう。経験を買われて来日したのは、 アメリカのエリック・フロア社の技師26名。これとコンビを組んだのは「愛知用水公団」の技術者370人ほどだった。國や県の事業所から選りすぐられた働きざかりの技術者である。

 この工事では、我が国のダム常識を覆す現場の土石をフル活用するロックフィル・ダムが採用された。管理のしやすい開水路の壁面には薄いコンクリートで舗装。 逆にサイホンは高圧に耐える強固なコンクリートを現場打ちで仕上げていく。徹底して経済性を追求し、大型機械を駆使するこの工法は当時の日本側技術者に大変な衝撃を与えた。 用水完成後、各地に散った技術者によってこの経験は活かされていく。昭和30年代後半にはじまる構造改善事業には、彼らの働きが大きな力となった。 農業土木技術の躍進は、ここからはじまったといってよいだろう。

 35年を経ても変わらぬ大高サイホンの確かさは「設計はアメリカ人がやっても、工事は俺たちに任せろ」とはりきった、当時の技術者の心意気を伝えているのだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1998年1月14日 より転載


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