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蟻文字

 前3世紀、中国の統一を果たした秦の始皇帝が没して間もなく、反乱で秦はわずか15年で滅んだ。そして、楚の覇王項羽と漢の劉邦によってあとの覇権が争われたが、 結局、劉邦が烏江(現安徽省)の戦いで項羽を倒して皇帝の座につき、前漢の高祖となった。破れた項羽は無双の豪傑であったが、無謀で純情な性格でもあったという。 項羽といえば「四面楚歌」の故事で知られるがこんな話もある。

 劉邦の名参謀だった張良は烏江の決戦の前夜、スパイを敵の陣内に放ち、砂糖水で地面に「覇王自刎烏江(覇王、烏江に自ら首を刎る)」と大書させた。 翌朝、無数のアリが群がって浮き出たこの"蟻文字"を見た項羽は、「わが世は終われり、アリまでわれを辱めるか」と嘆いて自殺して果てたという。 以来、「漢の天下はアリの助けでできた」と言い伝えられるようになった。

 それから2千2百年余の時を経て、1991年の日本で黒澤明監督が『8月の狂詩曲』という映画を作り、その中で「足元からアリが行列を作って歩き、 赤いバラの花に登る」映像を必要とした。巨匠といえどもアリに演技させるのは至難なことである。そこで、アリの化学交信物質を研究をしている京都工芸繊維大学の山岡亮平氏に相談が持ち込まれた。

 アリが行列を作って道を間違えずに餌場と巣の間を何度も往復できるのは、本能という言葉で説明されてきた。が、近年その間にはアリが分泌する「道しるべフェロモン」による匂いの道がつけられていることが明らかになった。 そこで山岡氏は、クロクサアリから抽出した道しるべフェロモンで地面に道をつけたが、アリに"そ知らぬ顔"をされたという。調べた結果、 地面の粘土の粒が匂いを吸着して道が消えてしまったためとわかった。そこで、地面に吸着防止の措置を施すことで、ようやくアリの行列をバラの花に到達させることに成功した。

 ただ、昆虫学がこうしたジャンルの役に立つことはきわめてまれだが、この件に関する限りは、「映画は昆虫学の助けでできた」といっても過言ではないかもしれない。

[研究ジャーナル,27巻・9号(2004)]



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