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虫を聴く文化

梅谷 献二


鳴くスズムシの雄

 日本人の生活は古来自然とともにあった。秋になると、鳴く虫の声に耳を傾け、美声の鳴く虫は声だけでその名前を知っていた。実はこうした習俗は世界的には大変珍しく、 ほとんど日本と中国だけに存在する文化といえる。
 本稿は、そうした文化の歴史的背景を要約してまとめたもので、内容は主としてJR東海エージェンシーの月刊誌『ひととき』の5巻8号(2005)に書いたものを骨子とした。


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 虫を愛でる日本文化
エンマコオロギ スズムシ
図1 エンマコオロギ(左)とスズムシ(右)

 古来、日本人は、コオロギの声で秋を感じ、ホタルの光に郷愁をおぼえ、セミの鳴き声を種類別に聞き分けた。しかし、こうした感性は世界的には大変珍しく、 誇るべき日本人の感性といえる。身近な虫に日本ほど多彩な方言のある国はほかにないし、童謡『虫のこえ』の、マツムシのチンチロリン、スズムシのリインリン、 ウマオイのスイッチョンなどや、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミのように、虫の声を文字で表記する国もほかに聞かない。 とくに欧米人は虫の鳴き声を雑音として聞くばかりか、鳴いていることすら気付かない人が大部分である。蝉の大合唱に深い静寂を感じた芭蕉の 「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」などは欧米人にとってはとうてい理解を超えた世界であろう。

 ちなみに、芭蕉が立石寺で詠んだこの名句のセミの種類をめぐり、齋藤茂吉のアブラゼミ説と小宮豊隆のニイニイゼミ説で争われたことはよく知られている。 結局、時期的な検証などからニイニイゼミで決着がついたが、このために茂吉は三度も立石寺を訪れたという。こうしたこだわりを持ったのが昆虫学者ではなく、 文学者であったことが興味深い。

 人間の脳は左右で機能が違い、一般に左脳が言語をつかさどり,右脳が言語以外の雑音の処理を行っているといわれるが、医学者の角田忠信氏(1978)の研究によれば、 日本人は例外的に虫の声をはじめ自然界の音を言葉と同様に左脳で聞いているという。また、これは人種的な違いではなく、話し言葉の環境の差によるもので、 9歳まで日本語で育つと、母音の音の物理的な構造に似た人の感情音や虫や動物の鳴き声、自然界のさまざまな音を左脳で処理するようになるそうである。 だから、外国育ちの日系二・三世にはこうした現象は起こらないという。ただ、虫を聴く文化の成立をこれですべて説明するのは無理に思える。 この文化は中国でも古くから継承されているからである。日本や中国の豊かな自然環境や美しい四季の変化のなかで営まれてきた生活も、 この特異な文化を育てる大きな要因になったに違いない。

 日本では単に「花」といえばサクラを指したが、同様に、「虫」といえばコオロギ科のエンマコオロギ(図1)、スズムシ(図1)、マツムシ、カンタン、 カネタタキなどや、キリギリス科のキリギリス、クツワムシ、クサキリ、ヤブキリ、ツユムシなどのバッタ目の秋の鳴く虫を指した。これらの鳴く虫の多くは、 晩夏から秋にかけて成虫が現れ、雄がラブコールを奏でて雌を呼ぶ。そしてその鳴き声はもののあわれと結びついて、われわれ祖先の琴線を揺さぶり、 鳴く虫の声を鑑賞する文化が生まれた。

 「鳴く虫文化」の発祥と普及

 北京原人や日本の旧石器人が鳴く虫の声に耳を傾けなかったという証拠はどこにもないが、最古の歌集の『万葉集』(8世紀後半)に、 「影草の生いたる野外やどの夕影に なく蟋蟀こおろぎは聞けど飽かぬも」など、 「こおろぎ」を詠んだ歌が7首残されていることから、この文化の発祥は少なくとも奈良時代にさかのぼることができる。ただし、 当時の「こおろぎ」は鳴く虫の総称として用いられていたらしい。

 下って平安時代には鳴く虫をカゴに入れて声を楽しむ風流が貴族階級に流行し、「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝ん」 (藤原良経<新古今和歌集>)など、「こおろぎ」に代わって「きりぎりす」が詩歌に登場するようになり、清少納言の『枕草子』にはも「すずむし、松虫、 きりぎりす、はたおり」の四種の鳴く虫が好ましい虫として登場する。が、この「きりぎりす」は現在のコオロギ類を指し、「はたおり」がキリギリスを指すと考証されている。 また、同時代の紫式部の『源氏物語』の「鈴虫の巻」には松虫を捕ってきて庭に放したり、鈴虫の声に興じながら酒宴を催したりする様子が書かれている。 ただ、これらに登場する「鈴虫」と「松虫」は名前が入れ替わっていることが江戸時代から指摘され、これが定説になっているが、現在でもその逆転はなかったとする昆虫学者もあり、 混乱は長く尾を引いている。

 平安時代には貴族が京都の嵯峨野や鳥辺野に遊び、マツムシやスズムシを捕らえてかごに入れて宮中に献上する「虫選び」や、捕らえた虫を庭に放して声を楽しむ「野放ち」や、 野に出て鳴き声を聴く「虫聞き」などの盛んに行われた。

 「鳴く虫文化」はやがて庶民の間に流行し(図2・3)、江戸時代の中期には「虫売り」という新しい商売が成立した。とくにスズムシでは飼育技術が高度に発達し、 越冬中のスズムシの卵を暖めて、高価に早期出荷する技術まで開発された。また、市松模様の屋台(図4)が、虫カゴを並べて売る「虫売り」のシンボルであった。 虫カゴも素朴な竹細工から、大名家で用いる蒔絵を施した超豪華なものまで独自の発達をとげていった(図5)。

歌川広重「道灌山虫聞之図」 鈴木春信「見立源氏夕顔」 虫売りの屋台
図2
歌川広重「道灌山虫聞之図」。現在の荒川区西日暮里のあたりで、当時は文人墨客の遊山地であった。
図3
鈴木春信「見立源氏夕顔」(部分)1981年・切手趣味週間。虫かごを持つ子供が描かれている。 春信には他に「虫籠と子供」という作品もある。
図4
江戸時代の虫売りの屋台で市松模様が特徴
  (多摩動物公園蔵‐矢島稔氏原図)

虫籠・その1 虫籠・その2
図5 伝統的な竹細工の漆塗りの虫籠は現在も作られている(静岡県・然林房製作)


 中国の鳴く虫事情

 一方、中国では少なくとも唐の時代(8〜9世紀)から宮廷の女性たちが鳴く虫を飼って声を楽しみ、現在も日本ほどは衰退が著しくない。 とくにキリギリス(日本とは別種のチュウゴクキリギリス)は人気が高く、これを小カゴに入れて売り歩く行商人の姿が各地で見られる(図6)。 中国の鳴く虫文化は、微妙な点で日本とは違いがある。

 まず飼育容器が日本では主として竹籠であるのに対して中国ではヒョウタンや木製の密閉型の容器が多い(図7)。キリギリスの餌は日本ではキュウリやナスが主体だが中国では枝豆やご飯粒を与え、 時にミールワームなどの生餌を与える。栄養生理学的には断然中国のほうが優れている。また中国ではクサヒバリやスズムシなどの小型の鳴く虫を小さい容器に入れてポケットに入れて持ち歩き、 歩きながら声を楽しむが、日本にはこの習慣はない。

 また、中国にはコオロギを闘わせる12世紀の宋代にさかのぼる伝統的な「闘蟋とうしつ秋興しゅうきょう)」という遊び(賭博)があり、 そのための飼育技術や道具類を特異的に発達させながら、老若男女を巻き込んで現在も熱くに続いている(図8)。今はこれに金を賭けることが禁止されているが、 逮捕者が後を絶たないと聞いた。かつて強いコオロギの所有者は各地に遠征し巨万の富を築いたと伝えられる。しかし、この遊びはついに日本に伝わることはなかった。

中国の鳴く虫容器 キリギリスを売る中国の行商人 キリギリスを売る中国の行商人
図6 中国の鳴く虫容器のいろいろ。中の見えないものが多い(梅谷コレクションより) 図7 キリギリスを売る中国の行商人(昆明市内・2000年8月撮影)

闘争用のコオロギを売る露店 商品のフタホシコオロギ
図8 闘争用のコオロギを売る露店風景(左)と商品のフタホシコオロギ(右)
(昆明市内・1995年8月撮影−種類は、北部ではツヅレサセコオロギの近縁種が使われる)

 滅び行く鳴く虫文化

 日本では江戸時代の「虫売り」が明治になっても隆盛を極め、19世紀末には売られる虫のメニューも増え、12種類を数えたという。正岡子規にもこんな句がある。 「飼い置きし鈴虫死んでいお淋し」。

 「虫売り」の繁盛は昭和になっても続き、虫を売る露天や虫かごを担いでキリギリスなどを売り歩く行商人の姿が夏の風物詩となっていた。しかし、 やがて戦争が始まり戦災で虫の問屋が全滅する。畏友小西正泰氏(1993)によれば、「戦後はまた野生の虫を捕集して、銀座などの盛り場で売られるようになった。 焦土の中から、いち早く虫売りが復活したということは、衣食住にも窮迫した状況下で、なお鳴く虫に心を寄せるほどに、日本人の風流心は根強いものだったのであろう」 ……というわけである(図9)。

 その後、生活の安定と向上で、虫売りは回復していくが、売り場はデパートやペットショップに移り、種類数も1980年ころには7種、1985年ころにはスズムシ、 マツムシ、カネタタキ、キリギリスの4種くらいまで大幅に減少する。それでも前記の小西氏によれば、当時、千葉のある業者ではスズムシを年間少なくとも300万匹出荷し、 これは全国総数の80%に相当したという(図10)。

 しかし、一般的な傾向では、かつて子規も癒された日本の鳴く虫文化は、戦後の高度成長期を境に、生活の欧米化に伴い日本から衰退しはじめ、 ペットショップの主役も鳴く虫からカブトムシやクワガタムシに置き換わり、スズムシの家庭での飼育も衰退していく。ひとつには子供たちの遊びが野外から屋内ゲーム機に変貌したこともあろうが、 祖先から引き継がれた文化を子供たちに伝えるべき親たちがすでにトンボ採りをした昆虫少年だった経験がないことも原因しているであろう。また、このことは、 自然を愛する日本人の感性まで変貌しつつあるようでさびしい。

 結局,鳴く虫文化は、東アジアの一角の日本と中国でおそらく別個に誕生し、それぞれ独自の発達を遂げたものと思われる。ただ、この共通の感性には、 日本人のルーツという根源的な部分が関与しているように思えてならない。

 せめてこの共通の伝統を持つ中国に継承を期待したいが、中国もまた、自由経済の導入で大きな転機を迎えようとしている。そして日本を追うように、 鳴く虫文化の伝統にも陰りを見せはじめた。

 カブクワ(カブトムシとクワガタムシ)のバトルゲームの空前のブームを担う現代の昆虫少年たちに期待したいのだが、どうもこのブームは日本の伝統文化とは無関係の、 外来電子機器文明の延長線上にあるように思えて心もとない。

鳴く虫売り 鳴く虫売りの露店
図9
 戦後も鳴く虫売りは秋の風物詩だった。昭和27 (1952) 年8月15日付の朝日新聞より
図10
 昭和30年代前半(1955〜60年ころ)に新宿で撮影した鳴く虫売りの露店



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